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〈その11〉とうとう年賀状の仕事

 何とか収入を得なければと、簡単な印刷器具とTシャツを購入しました。乗り物や人の顔の小さなイラストをプリントし、売り歩いて食いつなぎました。100枚ほど売れたでしょうか。数十万円の収入になりました。近所のカフェなどから「メニューを描いて」との依頼もポツポツ入りました。
しかし、まだ生活できるレベルではありません。イラストを描きため、ファイルをつくりました。あちこちで「イラストレーターになりました」「ポストカードを売るのが夢なんです」と触れ回っていると、ある知人が、カードを扱う会社の営業担当者を紹介してくれました。喜び勇んでファイルを携えて会社に向かいましたが「その辺に置いておいて」と言われただけの、素っ気ない対応でした。
「年賀状の仕事をしてみないか」。その会社から電話がかかってきたのは、1年ほどたち、ファイルを預けたことすら忘れかけた頃でした。忘れもしない、1997年うし年の年賀状でした。僕はその時、動物のお尻ばかり描いていました。なぜって、動物の顔を正面から描くのは難しいからです。「自分が描いたものを、人に買ってもらえる。なんてすてきなことやろう!」。胸が震えました。




〈その12〉芸大仲間と壁画の会社

 今から見ればつたない絵ですが、ポストカードが商品化されました。大阪・梅田の「ロフト」に自分の商品が並んでいるのを見た時の誇らしさは忘れられません。
これを機に、また少しずつ入り始めた仕事の中に、商業施設に壁画を描く仕事がありました。何人かのチームで現場に行き、決められた絵や模様を1〜2週間かけて壁や柱に描くのです。
具体的な絵を描く以外に、金属製の壁を木製のように見せたり、真新しい壁を古ぼけたように見せたり、という注文もありました。開業前のテーマパークでアトラクションの壁を担当したり、映画の撮影現場で、まるでそこに建物が立っているかのように見える絵を描いたりもしました。なかなか得難い経験でした。
ある日、現場で京都市立芸大時代の後輩と一緒になりました。彼も、描き手として派遣されていたのです。話をするうちに「誰かが決めた絵を雇われて描きにいくよりも、デザインから自分たちでする方がよくないか」ということになりました。
彼と僕、そして、やはり芸大の同期で、今もマネジメントを担当してくれている山羽英昭も勤めていた印刷会社をやめて加わり、3人で壁画制作会社「アイボリー」をつくりました。28歳の時でした。




〈その13〉やっと受注 幼稚園の壁

 営業先に病院や保育園を選んだのは、白い壁がたくさんあって、かつ、絵が描いてあったら良さそうだ、という単純な発想からでした。
殺風景で無機質な白い壁に絵を描けば、患者さんやお見舞いの家族、スタッフも元気になれるに違いない――。絶対に良いアイデアだと思い、パンフレットを片手に営業に回りましたが、どこの馬の骨とも分からない僕らの話を聞いてくれるところはありませんでした。
数え切れないほどの施設に断られ、最初に描かせてもらったのは、幼稚園でした。何日もかけて動物の絵を描き進めるのを、園児や先生、送り迎えの保護者が見守ってくれました。
完成すると、多くの人の目に触れる壁画はそれ自体が宣伝になります。遠くの小児科や歯科の病院・医院からも依頼が寄せられるようになりました。
だいぶたってからのことですが、何人かの医療関係者に「医療の効力には限界があり、アートに触れて精神的に癒やされることが、大きな力になる」と言われました。僕たちの考えたことは、間違っていなかったと思いました。
今のように世に認められるまでの間は、悔しい思いをしたこともありました。




〈その14〉つらい目数々 原動力に

 壁画制作会社として数年活動しましたが、数々のつらい目にもあいました。せっかく仕上げた絵をデザイナーの気分で一から描き直すなんて日常茶飯事。若くして独立した僕らは、どこか足元を見られていたのでしょう。
僕が絵の原案を描き、それっきり連絡がこないので見に行くと、別の塗装屋の手で描かれていた、なんてこともありました。「いつか、必ず見返してやる」。悔しさを原動力にしていました。
軌道に乗ってはいましたが、毎日仕事があるわけではありません。そろそろイラストレーターとしての「本業」の幅を広げねば、との思いもありました。一緒に起業した後輩が家業を手伝うことになった時機もあり「アイボリー」は壁画の会社から僕の仕事全般の会社になりました。
前後して、奈良出身の妻との結婚を機に奈良市内に住居を構えました。それで、事務所も奈良へ移すことにしました。2000年、奈良女子大学前に店舗兼事務所をオープン。自分の商品はまだTシャツやバッグくらいしかなかったので、おしゃれな文具や安いアジアのアクセサリーを仕入れて並べました。
人通りの多い場所ではありませんでしたが、口コミで評判が広まり、お客さんが徐々に増えました。その後、2009年に今の奈良市南市町に移転。2階への階段が二つあるなど、置屋の名残がある築130年の建物を改装して店にしました。




〈その15〉植木鉢に絵 人気商品に

 奈良で店を開店当時、数少ない商品に手描きの植木鉢がありました。素焼きの鉢に絵を描きメッセージを入れれば、母の日や記念日に贈るのにぴったりの、世界に一つだけのプレゼントになると思ったのです。ギフトを扱う会社に企画を持ち込んだこともあったのですが、実現には至りませんでした。
狙いは当たり、植木鉢は人気商品になりました。今も、結婚式の引き出物や、出産の内祝いに喜ばれています。
当時はまだ時間に余裕があったので、毎日のように昼食を兼ねて奈良市周辺のお寺巡りをしました。超有名でなくても、すばらしいお寺がいくつもありました。
僕の一番のお気に入りは、柳生の円成寺。自然に囲まれていて、落ち着いたたたずまいもさることながら、入り口の柱にすごくかっこいい絵が描かれています。山の中に、自分だけのほっとできる場所もたくさん見つけました。
奈良へ来て間もない2000年、初めての作品展を開きました。デザイナーから出発している自分は、あくまでイラストレーターであって、「画家」になるつもりはありませんでした。ただ「経験になれば」と軽い気持ちでしたが、何事も、やってみなければ分からないものです。