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〈その1〉笑顔 がんばった先に

 もちいどのセンター街から路地を東に少し入った奈良市南市町に、「アイボリー」という雑貨店があるのをご存じでしょうか。4年前、置屋の名残がある築130年の建物を改装して、1階を店舗、2階をアトリエ兼事務所にしました。波打ったガラスの向こうにならまちの家並みを眺めながら、絵を描いています。
奈良のみなさんの中には、サラリーマン風のパンダの絵がついた「曽爾高原ビール」を見たことがある方がいるかもしれません。帽子をかぶり、ネクタイを頭に巻いたほろ酔いの「パンダ係長」です。昨年、水色が基調の夏向けと、赤色の冬向け=写真=の2種類をつくりました。
「まほろば大仏プリン」の大仏のイラスト=写真=も僕です。「ああ、あれね」と思っていただけるでしょうか。そんな仕事をしています。
街角で大きなキャンバスにその場で絵を描くパフォーマンス「ライブペインティング」でお目にかかった方もいると思います。下書きはせず、アクリル絵の具を使って、1時間半くらいで仕上げます。今年は6月に「ムジークフェストなら」の催しの一つとして、近鉄奈良駅前の行基広場で描きました。
ライブをするのは、特に子どもたちに、僕が楽しんで描いている様子を見てほしいからです。子どもたちにとって1時間半は短い時間ではありませんが、熱心に見ていてくれます。東日本大震災後には、被災地でも描きました。
何を描いているかというと、動物や子どもたちです。最近はドラキュラやミイラも描きますし、阿修羅像や仁王像の作品もありますが、ずっと動物を描いてきました。一番好きなのは象です。だから、店の名前も「アイボリー」。象牙の意味です。
ポストカードやカップ、タオルといった雑貨や、企業のパンフレットのデザイン、病院や幼稚園の壁画などの仕事をしながら、年に数回、展覧会を開いています。絵本も9冊出しました。今は、20日から福岡市の博多阪急で開く展覧会に向けて、こけしや時計、トートバッグ、小箱、スツールといった手描きグッズを制作しているところです。
I wish you are always smiling.(あなたがいつも笑顔でありますように)
僕が、自分の作品に入れるメッセージです。
「いつも」と言ったって、人間、24時間365日笑ってばかりはいられません。みんな、それぞれ悩みを抱えて生きている。でも、悲しみのふちにいる人も、しんどい思いをしている人も、僕の絵を見てほっとしたり、にやっと笑ったりしてくれたら。今はつらいかもしれないけど、がんばったその先には、きっとすてきな笑顔があるよ。そんな気持ちを込めています。
大阪で生まれ、京都の大学に通い、結婚を機に奈良へ来て14年になります。そんな僕の来し方をお話ししたいと思います。(全20回、構成・栗田優美)

たけうち・よしひと 1969年、大阪市生まれ。マネキン会社勤務を経て独立。アイボリーは月曜定休(祝日は営業)。電話(0742・20・1210)、ホームページhttp://www.ivory1.com/。8、9日に奈良市東寺林町のならまちセンターで開催の「ハンドメイドマルシェ」にも出展する。「まほろば大仏プリン本舗」(0742・23・7515)は近鉄奈良駅構内などに出店している。曽爾村の「曽爾高原ビール」のパンダ係長ラベルは現在、売り切れ中。




〈その2〉子どもの頃は工作好き

 1969年、大阪市東淀川区で生まれました。阪急淡路駅に近い下町です。今ではマンションが増えてすっかり街並みが変わりましたが、当時は細い路地が子どもの遊び場でした。
学校が終わると、ランドセルを放って遊びに飛び出しました。野球をしたり、缶蹴りをしたり。今では考えられませんが、缶蹴りの時には、よその家の屋根に登って隠れたりもしました。
日が沈むにつれて一人、また一人と減っていき、最後は「ごはんだよ」って母が迎えに来る。ちょうど、「ちびまる子ちゃん」の世界みたいな子ども時代でした。
工作やプラモデルも好きでした。プラモデルは戦車や戦闘機から入って、小学校高学年の時にガンダムがはやったんです。品薄でなかなか手に入らず、入荷の情報があれば友達と自転車をこぎ、隣町まで出かけました。
よく「子どもの頃から絵が好きだったのですか」と聞かれますが、絵よりも断然、工作の方が好きでした。これは完全に父の影響です。父は公営企業のサラリーマンでしたが、日曜大工を超えて、家で必要な物を何でも作ってしまう人でした。その気になれば、家も建てられたんちゃうかな。
竹とんぼ、水鉄砲、竹馬、バネや車輪を使い、実際に動く乗り物……。父は、身近にいくらでもあった竹や木を使って、おもちゃを作ってくれました。




〈その3〉美しく作る…父の美学

 幼い頃から身近に工具があり、使い方も教わっていた僕は、自分でも板に釘を打ち付けてパチンコを作ったりするようになりました。物づくりが好きな父は寡黙な人でしたが、工作だけは手厳しく指導されました。
紙で工作をする時には、飛行機でも何でも、まず展開図を描く。この時に、のりしろをちゃんと計算することが求められました。セロハンテープをべたべた貼ったりするのは論外で、「できあがった時に美しくなければならない」というのが父の美学でした。
子どもなりに僕も精いっぱい考えながら作るんですが、ほとんど褒められません。たいてい「おまえ、下手やなあ」とか言いながら、改善点を指摘される。最後には「ちょっと貸してみ」と、手直しされるのがいつものパターンでした。
学校からテストの答案用紙を持って帰っても、父は点数にはほとんど興味がないようでしたが、一つだけ、必ず注意されることがありました。それは、名前の書き方。字の美しさに加え、枠の中でいかにバランスが整っているかが父には大事なようでした。
この経験が今の仕事につながっています。文字をデザインするのが大好きですし、小さな枠組みの中にどうセンス良くレイアウトするかに心を砕いています。日々、報告したり相談したりするのは母でしたが、イラストレーターとしての今の自分は父親につくられたと思っています。




〈その4〉先生の指名 新聞手伝う

 絵を描いた経験で覚えているのは、小学4、5年の頃に銀閣寺を描いて先生にほめられたことです。絵を描くことが特別好きだったわけではなく、どちらかというとお寺やお城、武士の鎧兜(よろいかぶと)などの造形にひかれました。
数あるお寺の中で、当時も今も、僕の中の一番は銀閣寺。色、かたち、すべてがかっこいいと感じます。読書は苦手でしたが、お城の写真集や学習マンガ「日本の歴史」は愛読していました。
この頃、僕の性格は百八十度変わりました。それまで内弁慶でおとなしい方だったのが、何事も先頭に立ってしないと気が済まない、活発な性格になったのです。
5、6年の担任だった浜辺智文(ちふみ)先生のおかげです。怖いと評判の女性の先生でした。実際に叱られることもたくさんありましたが、明るい先生でした。先生は、ことあるごとに僕を指名し、手伝いをさせました。僕はその頃から文字をデザインしたりレイアウトしたりするのが得意だったので、学級新聞を熱心に発行していた先生に重宝されたのでしょう。学校の印刷室を使えたのはクラスで僕ともう一人の友人だけで、帰るまでに新聞を刷って配るのが日課でした。
そんなふうに先生の用事をするうちに、自分が進んで何でもしなければ、と考えるようになりました。実はもともと目立ちたがり屋のところがあって、それを先生が引き出してくれたのだと思います。




〈その5〉看板屋さんになりたい

 学級新聞の見出しを考案したり、図工でポスターを描いたりするうちに「自分はこういうことを仕事にしたい」と強く思うようになりました。
世の中に「グラフィックデザイナー」という仕事があることはおろか、「デザイン」という言葉すらまだ知りません。すぐにイメージしたのは、近所にあった看板屋さんでした。板にペンキで文字を描いている姿を見て、目指す道はこれだ、と思いました。
中学3年の担任は美術の先生でした。僕の人生に大きな影響を与えてくれた、大橋功先生です。「健やかな子どもの育ちと世界の発展のためには、美術教育を健全に振興させねば」という理念を持ち、今は岡山大学大学院で美術教育を教えておられます。
僕は先生に「看板屋になりたい。そのために、美術系の高校に行くつもりだ」と相談しました。すると先生は「好きな道を目指すのはよいことだが、まだまだ先は長い。専門的な勉強は大学へ行ってからでもできる」と、普通高校を勧めてくれました。
自宅から通える国公立の美術系大学は限られます。後に京都市立芸術大学を受験するのですが、逆算すると、ある程度のレベルの高校を選ぶ必要がありました。中学ではバスケットボールに明け暮れ、友達とも遊びながら、ひそかに勉強もしました。決して好きではありませんでしたが、他の同級生に負けたくない一心で、していないふりをしながら勉強していました。